この世の色々な法則を探求するブログ

「この世界はこういう仕組みで成り立っている」という真理に思い焦がれつつ、死ぬまでに1つでも多くの法則を理解・発見するために日々生きております。これまで生業として来た物理学、数学、人工知能などの分野を中心に、日々の考察日記を綴っていきたいと思います。

「無知の知」に必要な勇気

今年の「朝まで生テレビ」、最初だけちょこっとだけ観て「あんまり盛り上がらなさそうだから今年はいっか」と早々に床に就いて翌朝起きたら、盛大に炎上していてびっくり。何やらウーマン・ラッシュアワーの村本さんという芸人さんが相当叩かれている模様。あ、因みにこの番組、昨今ではご存知ない方も多いのかもしれませんが、主に政治ネタを中心に学者さんや政治家の先生、そして司会者の田原総一郎さんがタイトルの通り朝まで夜通し議論を繰り広げるという番組です。で、その中で「芸人」という、この番組の中ではマイノリティーの肩書で参加されていた村本さん。俄然興味が湧いて、一体何が起こったのかYoutubeで視てみました。感想として、羨ましいなと思いました。ここで政治の話をするつもりは更々ないので、村本さんの主張の「中身」はここには書きません。素直に凄いと思ったのはその主張の仕方です。圧倒的に持っている前提知識に差がある学者先生に囲まれながら、「これを知らないと公言したら明らかに馬鹿にされる」であろうことを「知らないので教えて下さい」と明言し、更にその上で率直にご自身が正しいと思っている主張(それを言ったら多くの人を敵に回すであろうことを、恐らく十中八九ご本人もよく自覚しておられるはずなのに)を包み隠さず堂々とする。これは僕が今一番出来ていないことだなぁと、新年早々視ていて少し凹まされました。これって相当な勇気がいることだと思います。もしも僕が同じ場にいたら、本当は詳しく知りもしないのにフンフンと黙って頷いて分かっているフリをしてしまいそうな気がします。この妙なプライドを捨て去る勇気を持たない限り、本当の意味での「無知の知」には至らないのかもしれないなぁ、と思いました。羨んでいるだけじゃなく、見習いたいです。因みにその後の村本さんのツイートを拝見していると、実はかなり計算の上で意図的に炎上させているんだなと思いましたが、あんまりそれを書くと営業妨害になるかもしれないので、この辺でやめておきます(笑)。

科学的真理を価値としたコミュニティを作れないか

純粋に真理の探究のみに価値を置くコミュニティの不在

子どもの頃は、純粋に知的好奇心を満たすことそれ自体を目的として、大学で研究に没頭する将来を夢見ていました。しかしながら大学、大学院で実際に研究に従事するようになると、大学の研究者といえども、多くの人(その人の能力にかなり依存する)は決して興味の赴くままに研究ができる訳ではない現実を知ることになります。まず、研究者個人が食べて行くためには論文を書かねばならないので、なるべく固い所でコンスタントにアウトプットの出せる研究テーマを選ぶ必要が出てきます。なので、例えば素朴には量子力学の解釈問題などは、現代物理学が現象をどこまで記述し得るか(もしかすると記述できない現象が存在するかもしれない)に関る非常に重要な問題に思えるにも関わらず、長らく結論が出ていないテーマであるが故に今ではタブー視されるようになっています。更に、研究室として食べて行くには研究資金を獲得する必要があり、そのためには「この研究をするとこんな風に世の中に役に立ちます」というアピールが必要になります。本来物理学や数学などの基礎学問は科学的真理を発見することそれ自体で、それが技術的に応用可能かどうかとは全く無関係に「人類の知的財産を増やす」という形で「世の中の役に立ちます」と堂々と言えるはずだと思っています。しかしそれだと予算を獲得しにくいのでかなり無理やりな形で「こんな技術的応用に繋がります」みたいなことを枕詞に入れることがままあり、これが却って基礎学問の価値が一般の人々に正しく理解されない元凶となり、悪循環を生んでいる気がします。

全てはお金にならないことが原因

以上は僕が10年以上前に経験した出来事ですので、現在は少し状況が変わっている部分もあるかと思います。ですが、アカデミックポストに就いた友だちの話や、ニュース等で漏れ聞く限り、少なくとも好転はしていなさそうに思えます。なぜこのような不幸な状況になっているのか?それは元来直接的にはお金とはほぼ無縁の活動である「真理の探究」という活動を、生活の糧とする(すなわちそれをしないと食べて行けない)「学者」という職業が出来てしまったからなのではないかと思っています。学問が職業化する以前は、研究は貴族の暇潰しのためのものであり、それをしなくても当然食べるには困らないことから、今よりも「本質的に面白いテーマ」に取り組めているように思えます。ところが産業革命によって科学が「場合によっては」技術的に役立ち産業発展に大いに貢献する(すなわちお金になる)ことが判り、国をあげてそこに投資するようになります。こうして元来お金と無縁の活動であるはずだった「科学」は、産業への直接的な貢献度合の高い「技術」と結びついて「科学技術」という概念になることでお金を獲得するようになります。しかしながら、それは裏返しとしてお金に縛られるようになることと同義で、このことが却って「科学」本来の目的を歪めるようになったのではないかと思っています。

近い将来、科学がお金から解放される日が訪れるかもしれない

ここで一旦ガラッと話が変わるのですが、何度かここのブログで書いた「お金2.0(佐藤航陽さん著)」に書かれているような経済の変化が起こると、お金のコモディティ化が起こり人々は必ずしもお金のために働かなくても生活するには困らなくなる時代が近い将来訪れる可能性があります。僕はもしもこれが起こると、科学が2つの意味でお金から解放されるのではないかと思っています。1つはプロとして「お金を稼いで」研究しているアカデミックな研究者が、かならずしもお金を稼がなくて良くなり、本来の「真理探究」のみを目的として研究テーマを選択できるようになるという意味で。もう1つは現在「お金を稼げない」が故に趣味として余暇の時間のみを使って科学に関っている人達が(望むなら)「お金を稼ぐため」の仕事から解放されて好きなだけ「真理探究」に没頭する機会を得るという意味で。

科学的真理を価値とするコミュニティを作れないか

上記の「お金2.0」では、これまで資本主義というお金を価値とする唯一の経済圏で暮らしていく選択肢しかなかったのが、近い将来、技術の発展のお陰で様々な経済圏を簡単に作ることができるようになり、それぞれの経済圏が独自の価値で形成されることが予見されています。ビットコインはその先駆けだと考えられますし、「時間」を価値とするタイムバンク、「信用」を価値とするレターポットなど、昨年末から今年にかけて資本主義とは異なる新たな経済圏を形成する試みが実際に続々と起こっています。そこで僕自身なら何を価値とするコミュニティに所属したいだろうか?と考えた時、純粋に知的好奇心を満たす「科学的真理」に価値を置くコミュニティが出来ないだろうか?という考えが(今はまだ完全なる思い付きレベルですが)ふと頭に浮かびました。これまでにも何度か、趣味レベルでそういうコミュニティが作れないかと考えたことはあったのですが、学問を本気でやろうと思うと結構なバイタリティとモチベーションを要するので自分だけならいざ知らず、そういう同志を募るのはかなり現実的でないだろうなと思っていました。しかし、もしも本当に多くの人がお金のための労働から解放される時代が訪れたとしたら、同じ価値観を持つ仲間が集まる可能性が結構あるのではないか?と思いました。まず大学や大学院時代にアカポスの現状を知って、非常に優秀であるにも関わらずその道を断念した方々。この人達は(お金を稼がないという意味で)アマチュア科学者といえど、能力的には申し分ない方々が沢山いると思っています。もしも万一このような全国(あるいは全世界!?)に眠れる科学者が皆目覚めたら、科学の世界に相当なイノベーションが起こる可能性があるのではないかと思っています。次に、もしもお金のために働く必要がなくなったとすると、みなさん相当暇になります。そうなるとこれまで科学にどっぷり浸かったことのない一般の方も、それらに興味を持つ機会が増えるのではないかな?と期待しています(ちょうど昔の貴族のように)。例えば「この世界はどのように誕生したのか?」や「人の意識とは何なのか?」って、もしも暇さえあれば、興味を持つ人が少なからずいてもおかしくないような気がします。これらの人達が集うコミュニティをもしも作ることが出来たら夢のようです。と、こんな突拍子もない夢物語を、中学時代より学問の喜びを分かち合って来た親友のT君に話をしたら、ものの30分足らずでストンと言わんとしてることを理解してくれてその驚異的な読解力に感服しました(笑)。そうそう、貴方みたいな人が集うコミュニティを作りたいのです(笑)。ここまではあくまでコミュニティの話。経済圏を作るにはメンバーだけでなく、システムが必要になります。そこについてはまた別途書きたいと思います。

おすすめ書籍:人生の勝算(前田裕二さん著)

やりたいことに没頭して生きて行きたいけれど、最初の一歩が踏み出せない方の背中を押してくれる1冊

この記事を誰向けに書くのが良いか考えたのですが、他でもない自分が感動した本なので、僕と似たような方向けに書くのが一番確実だろうと思いました。つまり、

  • 自分が本当にやりたいことに没頭して生きて行きたい
  • でもそうすると食べて行けないかも(やりたいことがお金になりにくいので)
  • だから今既に敷かれているレールから外れる勇気が持てない

ということで悶々とされている方。「人生の勝算」は、特に3番目がネックになっている方の背中を押してくれる1冊になる可能性が高いのではないかなと思っています。

完成された「モノ」ではなく、人との「絆」が価値になる時代

少し話が脱線しますが、前田裕二さんの「人生の勝算」も、別途記事を書きたいと思っている西野亮廣さんの「革命のファンファーレ」も、本質的には同じことを異なる切り口で具体化したものと思っていて、その共通部分を抽象化した法則は佐藤航陽さんの「お金2.0」に書かれている内容だと思っています。ここで言う法則とは「お金のコモディティ化と、価値主義の時代の到来」です。読まれていない方は一体何のこっちゃ?と思われるかもしれませんが、簡単に言うと今後「お金を生み出す」という行為は陳腐化(誰でも出来るようになる)して行き、どんな「価値を生み出す」ことが出来るかの方が重要になるということです。前者の、「お金を生み出す」という行為が誰でも出来るようになる、ということにリアリティが持てないという方は、「お金2.0」や「革命のファンファーレ」を是非お読みになって下さい。ここでは後者の「価値」の方に着目します。「人生の勝算」においてここで言う「価値」に相当するのは人との「絆」です。生産性が高く殆どのモノが安価に手に入るようになった現代において、私達は完成品としての「モノ」よりも、人との「繋がり」に価値を感じるようになりました。このことを反映して、音楽業界では完成された「モノ」としての作品そのものだけでなく、ファンとアーティスト、あるいは、ファン同士の「絆」が大きな価値を持つようになりました。このことは、これまで芸術として洗練された完成品を提供できるごく一部の才能と運に恵まれた天性の持ち主だけに開かれていたアーティストへの道が、正しい努力によって「絆」を生み出すことさえできればその他多くの人にも開かれる可能性があることを示唆しています。そしてそのような機会と仕組み(プラットフォーム)を提供するサービスが、前田さんが現在運営されている「SHOWROOM」です。また一旦脱線しますが、「お金2.0」では「分散化」というのが重要なキーワードになっており、これまで国や企業が力を持つ中央集権的な体制だったのが、あらゆる仕組みが分散化することで個人が力を持つ有り方に変わって行くと書かれています。この変化を音楽業界に照らし合わせた時の姿が「人生の勝算」に書かれている内容で、これまでのレコード会社やプロダクションに力が集中する中央集権体制から、ファンとの絆やファン同士の絆という価値を提供することの出来る「個人」が力を持つ分散体制へと移行しつつある、ということなのだと思います。

後天的な努力によって、頑張った人が報われる世界

「人生の勝算」は、一貫して前田さんの「正しい努力がきちんと報われる世界であってほしい」という信念が圧倒的な熱量を持って貫かれており、それが読者を惹きつける一番の魅力だと感じます。少年時代に路上の弾き語りで生活費を稼いでいた時のエピソード、投資銀行勤め時代に圧倒的モチベーションと努力により頂点に上り詰めるエピソードは、この信念を前田さんご自身が体現された結果だと思います。そしてSHOWROOMによって今度は他の多くの人に同じ体験が提供され、いつかその信念が実証される日が来ると信じています。本の最後は以下の言葉で締め括られます。

>>情熱と努力次第で、人はどんな高みにだって上っていける。自分の人生を通じて、これを証明してみせます。前田裕二の「人生の勝算」は今、はっきり見えています。<<

見極めてから掘れ

上記の圧倒的熱量を保ち続ける秘訣として「人生の勝算」では最初の見極めを重要視しています。ここの見極めが足りないと、最初は意気揚々と成功という金脈を掘り当てようとザクザク掘り始めるものの、長らく見つからないまま次第に疲労困憊してくると「本当にここを掘っていて良いのだろうか?実はこの下にはないんじゃないか?」とだんだん不安に駆られ、いつか掘るのをやめてしまうというのです。僕個人としては、この部分が一番新たな気付きで、かつしっくり来ました。冒頭に書いた、レールと違う方向に一歩踏み出す時にどうしても拭えない不安感。この不安感の元凶が長らく判らずにいました。ホリエモンこと堀江貴文さんの本などでは「小利口ではなく、バカになれ」と書かれていたりします。僕は間違いなく「小利口」に該当するという自覚があり、その「小利口」な人にとって「バカになる」というのは天才になるのと同じくらい難しい。解を見出せないまま歩みが止まり悶々としていました。しかし「人生の勝算」を読んで、自分の不安の元凶はここに書かれている「見極め」の不足から来るのではないかと思いました。これは僕を含む「小利口」な方々にとってそれほど目新しい話ではなく、仕事でよく言われている「課題定義」と「仮説立案」を徹底的にやりなさいという話だと思います。これを会社の仕事だけでなく、自分の人生という広いスコープにおいてもしっかりやりなさい、そうすれば不安は払拭されて(レールとは関係ない)進むべき道が見えてくるはず、そんなメッセージとして僕は受け取りました。そして「それなら自分にもやれそうだ!」と感じました。この記事をここまで読んで下さった方がいらっしゃったとしたら、きっと少なからず同じように一歩が踏み出せず悶々とした悩みを抱えていらっしゃる方なのではないかと思います。そんな方が少しでもこの本に興味を持って下さり実際に本を手に取られて、同じように新たな一歩を踏み出す希望を持てるようになれば嬉しいなと思っています。

人生の勝算 (NewsPicks Book)

人生の勝算 (NewsPicks Book)

因果関係とは何か - 第0回 -

仕事柄「統計解析や機械学習が提示できるのは基本的に相関関係であって、因果があるかどうかは判らないのです」ということをよく口にしたり耳にしたりする訳ですが、「では相関と因果は一体何が違うのか?」というのを改めて考えると、両者の違いを区別する条件を明確に理解出来ている訳ではないことに気が付きました。以下のようなケースは、相関があっても因果ではない状況の「事例」としてよく紹介されています。

  • 因果の向きが逆
  • 上流に共通の要因がある
  • 合流点でデータ選定がなされている
  • 単なる偶然

しかし、だとすると「因果関係」の定義はなんなのでしょう?数学的にどのような条件を満たしていれば、それは因果関係であるということが出来るのでしょうか?この素朴な疑問について、最初は今時ググればすぐに見つかるだろうと思いながら色々と調べてみたのですが、意外なことに今の所その答えを見つけられていません(もしもご存知の方がいらっしゃったらコメント頂けますと嬉しいです。)。私の興味は以下の2つです。

  • 「因果関係」の定義は何か?
  • その定義に合致するデータを、統計解析や機械学習によって抽出することは可能か?

これらが既に解明されている問題であるのかどうかを知らないのですが、分野としては「統計的因果推論」というものが近そうなので、この学問分野について深く知りたくなりました。入門として、以下の教科書が比較的読み易そうだったので(しかも新しいですね!)、今後数回に渡って本書の要約を書いていきたいと思います。

構造的因果モデルの基礎

構造的因果モデルの基礎

お金2.0 新しい経済のルールと生き方(佐藤 航陽さん)

「やりたいこと」があるのに「やらなければならないこと」を優先してしまうことに悩んでいる人におすすめ

この本を読む以前、ホリエモンこと堀江貴文さんの本などを何冊も読む中で、「やりたいことをやればいい」「役に立つかどうかわからないことでも没頭してやっていると、そのうちそれが仕事になる」と何度背中を押されても、結局その一歩を踏み出すことが出来ずにいました。それはやはり「やらなければならない(と自分で思い込んでいる?)こと」をやらないことのリスクをどうしても恐れてしまう自分がいるのと、「没頭してやっているとそれが仕事になる」ことをリアリティを持ってイメージ出来なかったからではないかと思います。この本を読んで、「やらなければならないこと」だけをやり続けることこそが逆にリスクになること、今後は「役に立たない(お金にならない)」ことこそが価値に成り得ること、をリアリティを持ってイメージすることが出来ました。特に「やりたいことで今すぐ稼げなくても大丈夫なんだ」と自信を持って思えるようになったのが大きな収穫でした。これまで「やりたいこと」について考える際、どこかで「それで稼げるか?」ということが脳裏をよぎり、本当に自分のやりたいことが無意識に歪められる結果、ハマるほど没頭できずにいたのだということに気が付きました。まずは一銭も稼げなくても良いので、素直に自分が元来やりたいと思っていたこと(純学問的な探求)をすることにしました。もしも同じような悩みを抱えられている方がいらっしゃったら、是非一度読んでみることをお勧めします。

理系で、「経済って何度勉強しても今一つ理解できた気にならない」という人におすすめ

この本は経済の本ではなく「サイエンス」の本だと思いました。佐藤さんの「仮説を立てて実際の事業で実験して検証する」ことを繰り返し、そこから普遍的な「法則」を導き出す、というのは自然科学のアプローチそのもので、数学・物理的な物の見方に頭が偏ってしまっている自分にとっては非常に理解し易く、かつどこか美しさを感じる内容でした。そしてそこから導き出された法則は、量子論的世界観を知った時と同じような衝撃を持って自分の世界観を(もちろん良い意味で)変えてくれました。

今のお金や資本主義のシステムにどこか疑問を感じている人におすすめ

実はこの本を読む少し前から、今のお金や資本主義のあり方はそろそろ時代遅れになりつつあるのではないか?ということを考えていました。今、自分が買いたいと感じるのは物よりもサービスの方が圧倒的に多い感覚があるのですが、一方で売る側としてはサービスの方が本質的に利益を上げにくい構造になっているのではないかと感じていました。それは資本主義が元々モノづくりを背景として発展したから、物売りに適したシステムになっているのではないかな、ということを漠然と考えていました。そんな折に丁度タイムリーにこの本に出会い、「価値のコモディティ化」と「資本主義から価値主義へ」という2つの考えによって、今まで自分がモヤモヤと考えていたことを見事に整理して、目の前の霧を晴らしてもらえたように感じました。

以上、ここ最近読んだ本の中ではダントツの良著でした。

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

封筒のパラドックス

以下で考察するパラドックスは、
「封筒のパラドックス」で検索すると多数ヒットします。


自分が初めてこのパラドックスを知ったのは大学2年くらいの時で、 中学時代からの親友から聞いたのが全ての始まりでした。 一見素朴な問題なのに、解決するのが非常に難解で、 冬休みに2週間くらいその親友と夜通しメッセンジャーで時には白熱して喧嘩腰になりながら議論したのが 今では懐かしいです。ここでは当時の議論を振り返りつつ、できるだけ問題の本質をクリアにすることを目標にします。



1.パラドックスの内容

パラドックスの内容自体はとても素朴で簡単です。

ここに2つの封筒A、Bがあります。

封筒にはお金が入っています。

1つの封筒にはもう1つの封筒の2倍のお金が入っていることがわかっています。

どちらの封筒が高額(2倍)なのかはわかりません。

あなたはどちらか1つの封筒を選び、選んだ封筒に入っているお金をもらうことができます。

更に、あなたはいずれか一方の封筒の中身だけ、見ることができます。


Aの封筒の中身を確認したところ、100円が入っていました。

とすると、Bの封筒には100円の半分の50円が入っているか、2倍の200円が入っていることになります。

50円が入っていたらAを選んだ方が得ですが、200円が入っているならBの方が得ということになります。

どちらの封筒を選んだ方が得でしょうか?

Bに50円が入っている可能性と200円が入っている可能性は等しいはずですから、どちらも確率は1/2です。

だからBを選んだ場合に期待される獲得金額(これを期待値と呼びます。)は


(50円が入っている確率) \times 50円 + (200円が入っている確率) \times 200円
=1/2 \times 50円 + 1/2 \times 200円
=125円


で、125円になります。

Aには100円が入っていることがわかっているので、Bを選んだ方が得になります。



今度は、少し設定を変えて、あなたはどちらの封筒の中身も確認することができないとします。

最初に運を天に任せてAを選びました。

でも優柔不断なあなたはやっぱりBにしようか悩みました。

そこでさっきと同じようにBに入っている金額の期待値を計算してみました。

Aに入っている金額は今度は判りませんから、X円とします。

Bには2倍の2X円が入っているか、半分のX/2円が入っているかのどちらかで、その確率はいずれも1/2です。

するとBの金額の期待値は


 1/2 \times 2X円 + 1/2 \times X/2円
= X円 + X/4円

となり、Aの金額X円よりもX/4円だけ多くなります。

よってBを選んだ方が得になります????????

そこでBを選んだあなたは、またもや、やっぱりAにしようか悩みました。

そこで今度はAの金額の期待値を計算しようとします。

今度はBにY円入っていると仮定します。

すると全く同じ計算によってAの期待値はY円+Y/4円になります。

つまりAを選んだ方が得になります????????

Aを選んだあなたは、またまた、やっぱりBにしようか悩みました。

……





このように、何度選び直しても、

選んでいない方の封筒の方が期待値が高くなってしまう

というパラドックスです。

パラドックスそのものは素朴で中学生の数学で理解できるのですが、

解決するのは非常に難解でした。

陥りやすいトラップが複数仕掛けられている、非常に巧妙で良くできたパラドックスです。




2.どこに考え方の誤りがある?

まず、問題を以下の2つに分類します。

①片方の封筒の中身を見ることができる場合
②どちらの封筒の中身もみることができない場合

その上で問題をさらに以下の2つに分けます。

A:2つの封筒に入っているお金に上限、下限が定められている場合

B:2つの封筒に入っているお金に上限がない場合

以上の問題に分類した時、各々のケースでの結論を最初に書いておくと以下のようになります。

条件\金額の上下限 A:上下限あり B:上下限なし
①封筒Aの中身を見ることができる Aの中身が上限金額の半額以下ならBを選んだ方が得、その他の場合はAを選んだ方が得 どちらを選んだ方が得かは判らない
②どちらの封筒の中身も見ることができない どちらを選んだ方が得かは判らない どちらを選んだ方が得かは判らない

以下でそれぞれの場合の正しい解釈の仕方について考察します。

①片方の封筒の中身を見ることができる場合


①-A:2つの封筒に入っているお金に上限、下限が定められている場合
仮に1万円が上限(封筒の中に1万円より大きな額が入っていることはない)とします。
また、1円が下限(封筒の中に1円より小さな額が入っていることはない)とします。
1円から5000円の中から無作為にある金額を選び、
片方の封筒に選んだ金額を、もう片方にその2倍の金額を入れるものと仮定します。

最初にAの中身が100円だったとします。
Bの中身の期待値は上で説明した通り125円になりますから、
この場合には確かにBを選んだ方が得することになります。

一見、このことはAの中身がいくらでも変わらないように思えますが、
実はそうではないのです。
もしもAの中身が5001円だったらどうでしょう?
この場合Bには1万2円か2500円が入っていることになりますが、
1万円以上が入っていることはないことが判っているので、
Bには2500円が入っていることが判ってしまいます。
明らかにBを選べば「確実に」2501円損をします。
同じように、もしもAに1円が入っていたらどうでしょう?
Bに0.5円が入っているということはないので、Bには2円が入っていることが判ってしまいます。
Bを選べば「確実に」1円得をします。

まとめると、



- Aの中身を見て5000円以下だったらBを選んだ方が得。
- Aの中身を見て5000円以上だったらAを選んだ方が得。

ということになります。
一見なんでもない事実のように思えますが、
実はこのことが、後で考える「封筒の中身を確認できない場合」で非常に重要になります。


①-B:2つの封筒に入っているお金に上限がない場合
今度は
1円以上の範囲で無作為に金額を選び、
片方の封筒に選んだ金額を、もう片方にその2倍の金額を入れるものと仮定します。

入っているお金に上限がない場合には
Aの中身を見た時にいくら入っていたとしても、
必ずBにAの2倍のお金が入っている可能性と半分のお金が入っている可能性の両方が存在します。
AにX円(1<=X)入っていた場合、Bには2X円入っている可能性とX/2円が入っている可能性の両方があります。
そうなると、上で計算したように
Bに入っている金額の期待値は

(Bに2X円入っている確率) \times 2X円 + (BにX円入っている確率) \times X/2円
=1/2 \times 2X円 + 1/2 \times X/2円
=X円 + X/4円

でBを選んだ方が常に得をするように思えてしまいます。
しかし、ここで注意が必要です。
上の計算では「Bに2X円入っている確率」を「1/2」としていますが、
実はここに落とし穴があります。
「Bに2X円入っている確率」とは、正確には
「AにX円が入っていた時」に「Bに2X円入っている確率」
という条件付き確率なのです。

ではその条件である「AにX円入っている確率」はいくつでしょう?
今、Aに入っているお金は1円~∞円で(∞は無限大を意味します。)
無限通りの状況があります。
すると、「AにX円入っている確率」は、
「無限通り」の状況の中からX円が入っているという「1つ」の状況が実現する確率なので、

1/ \infty = 0

になってしまいます。
X円が入っている可能性は確かにあるのに、その確率が0というのは少し不思議ですね。
(これが何を意味しているのか、自分も未だに十分理解できていないような気がします。)
しかしとにかく愚直に計算すると「AにX円入っている確率」は0になります。

aである場合にbが実現する条件付き確率P(b|a)の定義は、

P(b|a) = P(a \land b)/P(a)
P(a) \gt 0


です。
この2番目の条件P(a) > 0は、P(a)は「0であってはならない」ことを主張しています。
つまり条件aが実現する確率は0であってはならないのです。
ところが今の問題では、条件に相当する「AにX円入っている」確率が0です。
従って、この問題で条件付き確率はそもそも定義できないのです。
従って条件付き確率を使って期待値を計算すること自体に誤りがあるように思います。

このことを別の切り口で考えてみます。
通常数学で無限大を扱う時には、まず有限で考えてそれを拡張する手法を用います。
そこでひとまず上限をNとして、これを後でN→∞にするようにします。

AにX円が入っていた時、Bに2X円が入っている確率P(B=2X | A=X)は


P(B=2X | A=X) = \left\{ \begin{array}{ll} 
1/2 & (X \leq N/2) \\
0 & (N/2 \lt X \leq N)  
\end{array}\right.

(Nが奇数だとN/2が分数になってしまい現実のお金では有り得ないことになりますが、 本質的な問題でないのでそれは無視します。気になる方はNは偶数だと思って読み進めて下さい。) 重要なのはNをいくら大きくしても、上記の1/2か0の「どちらか」である状況に変化がなくN→∞にしても収束しません。これが条件付き確率が定義できないことの、もう1つの考え方です。

結論としては、
2つの封筒に入っているお金に上限がない場合には、

- Aの封筒の金額を知っても、Bに変えた方が得か損かは「判らない」

ということになると思います。



②どちらの封筒の中身もみることができない場合

次にパラドックスの本題の方に入ります。
ここでも
2つの封筒に入っているお金に上限、下限が定められている場合と、
2つの封筒に入っているお金に上限がない場合。
の2つの場合に分けて考えてみます。


②-A:2つの封筒に入っているお金に上限、下限が定められている場合
上限をN円とします。
下限を1円とします。
1円からN/2円の中から無作為にある金額を選び、
片方の封筒に選んだ金額を、もう片方にその2倍の金額を入れるものと仮定します。
(Nが奇数の場合、N/2は分数になってしまい現実のお金では存在しないので
本質的な問題ではありませんがNは偶数を仮定して下さい。)

AにX円入っていると仮定します。
この時、Bの封筒に入っている金額の期待値は

  • X = 1の時

 1 \times 2X + 0 \times X/2 = 2X

  • 1 < X <= N/2の時

 1/2 \times 2X + 1/2 \times X/2 = X + X/4

  • N/2 < X <= Nの時

 0 \times 2X + 1 \times X/2 = X/2

ところが、今度はどちらの封筒の中身も見ることができないので
Xがいくつなのか知る術がありません。
従ってBを選んだ方が得かどうかは「判らない」のです。

このパラドックスの巧妙な所は、上限と下限を考えないようにさせることにより、
上記のX=1の場合やN/2<X<=Nの場合に考えが及ばなくなってしまう所です。

結論としては、2つの封筒に入っているお金に上限、下限が定められている場合

- Bに変えた方が得か損かは「判らない」

ということになります。

②-B:2つの封筒に入っているお金に上限がない場合
1円以上の範囲で無作為に金額を選び、
片方の封筒に選んだ金額を、もう片方にその2倍の金額を入れるものと仮定します。

この場合①の、いずれか一方の封筒の中身を見られる場合と同様の議論で、
条件付き確率は定義できなくなります。
「AにX円が入っている」確率は0になるからです。
つまり、「AにX円が入っている場合」という条件付き確率が意味を為さなくなり、
その場合にBに入っている金額の期待値というものは計算不能です。

結論としては、2つの封筒に入っているお金の金額に上限がない場合でも


- Bに変えた方が得か損かは「判らない」

ということになります。

3.そもそも条件付き確率を考えることがおかしい

そもそも、どちらの封筒の中身も確認できない状態で
条件付き確率を考えるという行為自体が不自然です。
この場合に求めたい確率は、
「最初にAを選んだが、その後やはりBに選び直して得をする確率」です。
これを見積もるのに、普通「AにX円入っていた場合」の条件付き確率で議論はしないと思います。
自然な計算方法は以下です。

まず上限をN(偶数)円とします。後でN→∞として上限をなくすことにします。
1<=X<=N/2とします。

AにX円が、Bに2X円が入っている確率は

1/(N/2) \times 1/2 = 1/N

Aに2X円が、BにX円が入っている確率は

 1/(N/2) \times 1/2 = 1/N

Aを選んでBに変えて得する金額の期待値は

 X × (1/N) - X × (1/N) = 0

これは「ある」X円と2X円が入っているという「条件付き期待値(この言葉が正しいかどうか判りませんが)」ですので、
全体の期待値を求めるには1<=X<=N/2の範囲で和を取る必要があります。
それは簡単で、

 \Sigma_{x=1}^{x=N/2}(X/N - X/N)
 = \Sigma_{x=1}^{x=N/2}(0)
 = 0

でやはり0です。
Aを選んでからBに選びなおして得する金額の期待値は0円。
つまり損も得もしません。
直観と合致する結果です。
この期待値はNをいくら大きくしても常に0円ですから、
N→∞にしても0円であると考えるのは自然です。
金額に上限がない場合でもBに選び直すことで損も得もしないことになります。

損も得もしないので、パラドックスも発生しません。






4.問題の本質

このパラドックスは、条件付き確率と無限という
2つの扱いが難しいものを掛け合わせた、
非常に良くできたパラドックスだと思います。

この問題ではまず、最初に片方の封筒の中身を見た場合の例を出すことで、「条件付き確率」の考え方をする方向に誘導します。最終的に問題となる「封筒の中身を見ない場合」にはそもそも条件付き確率の枠組みで考えること自体が非常に不自然、かつその枠組みで考えると問題が非常に複雑になりますが、敢えてその枠組みに思考を誘導する所に1つ目のトラップがあります。そしてその複雑な枠組みで考える場合には、封筒に入っているお金の上限、下限の存在を注意深く考える必要があるのですが、そこに目が向きにくい所に2つ目のトラップがあります。ここに気が付かないと、条件付き確率はどの場合にも一律で1/2になるように錯覚してしまう所が、このパラドックスの本質なのだと思います。