この世の色々な法則を探求するブログ

「この世界はこういう仕組みで成り立っている」という真理に思い焦がれつつ、死ぬまでに1つでも多くの法則を理解・発見するために日々生きております。これまで生業として来た物理学、数学、人工知能などの分野を中心に、日々の考察日記を綴っていきたいと思います。

社会全体がベイズ主義的になって来ている?

久しぶりの更新です。主に自らの備忘録のために思い付いた事をそのまま綴りますので、かなり粗削りな適当な内容になります事を、何卒ご容赦頂けますと幸いです。

ベイズ主義とは?

中学生の頃、数学で「確率」を勉強された方は多いかと思います。コインの表が出る確率は50%とかいうアレです。この50%という確率の数字の解釈の仕方には大きく「頻度主義」と「ベイズ主義」という異なる思想が存在します。「頻度主義」とは試行を無限回繰り返した時*1に着目する事象が発生する回数の比率(=頻度)が確率であるという考え方で、客観確率と呼ぶこともあります。先ほどのコイン投げの例で言えば「無限回繰り返し投げたら半分(50%)は表が出る」という解釈をします。中学、高校で学ばれた確率はこちらのイメージが近いかと思います。一方で「ベイズ主義」は、着目する事象が発生するという「確信の度合い」が確率であるという考え方で、主観確率と呼ばれることもあります。先ほどのコイン投げの例で言えば「次投げた時に表が出るだろうと思う気持ちと裏が出るだろうと思う気持ちの比率は、半々(50%)だ」という解釈になります。こちらの考え方はあまり馴染みのない方も少なくないかもしれません。この客観・主観の側面だけでも掘り下げると非常に興味深い(かつ悩ましい)世界が広がっていますが、今回はここには立ち入りません*2。この「頻度主義」と「ベイズ主義」は、それぞれの思想の違いを反映して、確率の数字を求めるプロセスが大きく異なります。「頻度主義」においては、客観という言葉からイメージされる通り、背景には(神のみぞ知るかもしれないが)唯一の正しいモデルが存在して、それを与えられたデータから出来るだけ真のモデルに近付くように推定するというアプローチになります。一方「ベイズ主義」では唯一の正しいモデルなどという考え方はせず、モデルはあくまで今持っているデータの範囲から得られる仮の物であり、新たにデータが得られたらそれをフィードバックして都度更新していくプロセスを取ります。乱暴な言い方をすると、「頻度主義」では最初から「なるべく完璧に近いモデルにしなきゃ!」と考えるのに対し、「ベイズ主義」では「今のデータではこのくらいのモデルだけど、随時データを増やしてモデルを改善していけばいいや」と考えるイメージです。

現在の社会に見られるベイズ主義的な側面

さて、この後者の「ベイズ主義」の考え方は、データサイエンスを始めとする学問的・技術的な分野で存在感を増しているのは周知の事実かと思いますが、この物の考え方といいますかパラダイムが無意識に社会の隅々に浸透して来ているように最近感じることが多いのです。例えばビジネスの世界で仮説/検証やPDCAのような言葉が登場したのは何も最近のことではありませんが、近年は要求されるスピード感がどんどん増すことで「仮説」や「P=Plan」の"仮の物"感(=最初は間違っていていいから取り合えず一旦仮説を立て、それを継続的に改善していけば良い)が強くなっているように感じます。同じような事は、ここ数年のCovid-19関連の政策にも求められていたと感じていて、感染拡大とそれに対する施策の効果を完全に予測するモデルは当然そう簡単に(永遠に?)構築出来る物ではありませんが、求められていたのは完全なモデルなどではなく、今あるデータから仮でも良いので仮説を立てて実行しその結果を受けてまた仮説を修正する一連のプロセスだったように思います(求められていたけれど十分に応えられていなかったので、社会の不満が爆発していたのではと思います。)。それから客観/主観という側面では(絶対/相対と言い換えても良いかもしれません)、SNSによって趣味や気の合う人だけと繋がりを広げたり深めようとする傾向などは、主観的/相対的な価値観の強まりを象徴しているように思えます。総じて、「何か正しい唯一の考え方や正解があり、そこに到達しなければならない」という考え方を持っている人は減っているように感じられ、「色んな可能性がありつつ学習しながら自分にとってより良い考えを獲得出来れば良い」という世界観を、意識的であれ無意識的にであれ、有する人が増えているのではないかな?と感じることが多いです。そんな社会の風潮と同期するかのように、それらと親和性の良さそうな、ベイズ統計や機械学習機械学習も根本的な考え方はベイズ主義に通ずる物があると思います。)が最近ビジネスシーンでも脚光を浴びるようになったのは、偶然ではないのではなかろうか?と思うようになりました。

なぜ今の社会とベイズ主義的な思想は相性が良いのか?

このようなベイズ主義と昨今の社会の傾向の関係性を考察するために、図1に示すような時間スケール×世界観という2軸に整理してみました。

図1:時間スケール×世界観マトリクスへのマッピング(頻度主義/ベイズ主義)

まず、頻度主義とベイズ主義は、上述の思想やプロセスの特性から、それぞれ右上と左下の領域に位置付けられます。次に、同じ図に社会における様々な活動をマッピングした図が、図2になります*3

図2:時間スケール×世界観マトリクスへのマッピング(社会活動)

ここで改めて2つの軸の説明をしますと、縦の世界観軸は上にいくほど「唯一の(または全ての人に当てはまる)正解が存在し、BESTを求める」世界観に、下にいくほど「正解は沢山あり(人によって異なる)、BETTERを求める」世界観に、なることを意味しています。横の時間軸は左にいくほど「変化・進歩が速い」ことを、右にいくほど「変化・進歩が遅い」ことを意味しています。例えば、物理学に代表されるような自然科学は、基本的に真理という名の正解を追求するので上の象限に、その厳格さ故に進歩のスピードは比較的緩やかなので右の象限に、位置付けられるといったイメージです。この図を見ると概して、最近新たに発生したサービスや、今現在多くの人にとって関心の強い分野は、殆ど左下の領域に集中するように見えます。つまり、人々の関心事は右上の領域から左下の領域にシフトしてきており、近年ベイズ統計や機械学習がビジネスや社会課題の解決手段として積極的に採用されるようになったのは、こうした社会の機運と整合性が良いためではないか?と考えています。この記事のタイトルでもある「社会全体がベイズ主義的になって来ている」ような感覚を持つ所以も、この4象限において両者が同じようなポジションに位置するためではないかと考えました。

求められているポジションとギャップのある分野は、この先厳しくなる

このような左下の象限に働く引力を生んだ大きな要因はインターネットの出現・普及だと思います。横軸の時間スケールについては言わずもがなかと思いますが、ネットにより技術革新のスピードが飛躍的に増大していることに異論のある方は少ないと思います。縦軸の世界観については、ネットの出現によりこれまで交わる事のなかった圧倒的多数・多種の人々の情報が手に入るようになり自分と全く異なる価値観に直に触れる機会が増えた事、そしてその価値観が時間と共に急激に変化していくのを目の当たりにする機会が増えた事で、「絶対的な正しさというのは存在しない」し「それを求める必要もない」という感覚が醸成されていったのではないかと思います。そしてこの傾向は、今後ますます強まっていくと思います。技術革新のスピードが緩まる/緩める大きな要因は今の所考えられませんし、絶対的な少数の価値観から相対的で多様な価値観に向かうのは、エントロピーの増大という自然の摂理にも適っているように思えるからです。そうなった時、この先、図2にマッピングした様な各分野の活動はどういった未来を迎えることになるでしょうか?左下の象限に位置する活動は今後も急速に変化・発展を続けていくでしょう。一方で、右上の象限に位置する活動は、大きく2つのグループに分けられ各々異なった未来を迎えるのではないかと思っています。1つは、本質的にこの象限に位置するべき活動で、社会からもそう求められている活動、もう1つは、本来は左下の象限に位置することを社会からも求められているにも関わらず、何らかの理由で右上の象限に留まり続けている活動です。前者はこの先も相対的に緩やかな発展に留まるかもしれませんが、社会に必要な機能としてそのまま存続するのではないかと思います。と言いますのも、右上の象限の活動を見ると食や社会インフラなどなくては生きていけなくなる極めて重要な物が多くを占めており、これらが重要であることは今後も変わりませんし、寧ろこれらがあるからこそ左下の象限の活動を発展させられるからです。そしてこのような分野は、基本的に「正解」を求める世界観の方がよく適合すると思います。失敗が許されないこれらの分野では、仮説ではなく確固たるファクトを知見として蓄積する必要があります。例えば、物理学では途中段階では膨大な仮説検証を繰り返しますが、最終的に物理法則として後世に残る物は膨大な批判的検証を潜り抜けて生き残った「ファクト」と呼べるべき物だと思います。後から新しい理論がより大きな枠組みとして過去の理論を包含する形で発展することはありますが、基本的に「過去のあの法則は誤りだった」ということは起こりません。だからこそ長年に渡る叡智の積み上げが可能になり、その確固たる物理法則*4を応用して今日も安全に新幹線や飛行機に乗ることが出来る訳です。そしてこれは社会からも、そうあって欲しいと思われていると思います。(この飛行機はまだ完全に正しいか分からない仮説としての物理法則に基づき設計されています、なんて言われたら恐ろしくてとても乗りたくないですよね。)一方で後者の、本来は左下にあるべきなのに右上に留まっている「ギャップを持つ」活動は、この先次第に衰退していくか、もしくはどこかで左下に姿形を変えて移行していくのではないかと思っています。政治などはこの例だと思っていて、社会の多くの人は左下の象限としての活動を求めているのに対し、実態としては右上にあるように感じています。例えば「選択的夫婦別姓が未だに認められないのって、一体どうして?("選択的"なのに、何が問題なの?)」というのが恐らく多くの社会人の自然な感覚(左下の象限)なのではないかと思いますが、政治の実行主体の内部においては恐らく右上の象限の引力が根強いため、未だに実現しないのではないかと思います。ただし、このギャップを孕んだ状態は構造として歪な上、今後左下の引力がますます強まっていくとその歪みは大きくなる一方なので、どこかでその歪を解消するメカニズムが発生するのではないかと思います。例えば今回のコロナ禍では、一時的に左象限(スピード感を持った対応)になることを否応なく求められて急激に歪みが増加したので、行政のデジタル化が動き始めたのはその解消メカニズムの1つなのではないかと思っています。まとめると、自分の活動のポジションは今現在4象限のどこに位置していて、それは社会が求めているポジションと一致しているだろうか?、という視点を持ちながら活動することが、今後重要になってくるのではないかと思います。

*1:数学的に非常に乱暴な表現ご容赦下さい・・・

*2:自身の勉強不足で正しく書ける自信がない、という方が正直かもしれません

*3:エイヤで書いているため、粒度や階層の異なる物がごっちゃになっている点、ご容赦下さい

*4:データ分析をする中で、稀に物理法則にきちんとデータが従っているかを確認したりすることがあるのですが、通常の理論の裏付けのない相関関係と異なり信じられないほど綺麗な関係性を示すのを目の当たりにした時、やっぱり物理法則に裏付けられた関係性って凄いと感動した経験があります。